ベストプログラミング  byゆじん

子育てのために健康・医療を独学中。サッカー、ランニング、健康についてわっかったこと発信

無知の科学

 

読み終わりました。ボリューム満点…過ぎ…読むのに疲れました。図書館から借りていたため急ぎ足で読んだのがいけなかった。もう少しじっくり読むべきだった😔

 

説明深度の錯覚

子供はなぜ?なぜ?繰り返し質問する。子供は物事が複雑であること、何かを説明しようとすると次々と新たな疑問が湧いてくることをなんとなくわかっている。

大人は物事が複雑であることを忘れ、質問するのをやめてしまったことで、探求をやめる決断をしたことに無自覚であるために、物事の仕組みを実際より深く理解してると錯覚する。

 

下記の中に大事なことはすべて含まれている。このことを、もっと早く知りたかった。小学生くらいで…だから自分の二の舞にならないように、子供にはこのことを伝えようと思う。

スペインの歴史を勉強するとしよう。その場合、スペインの国境の内側で起きたことを学ぶだけでは不十分だ。ローマ帝国、十字軍、ムーア人などについても学ぶ必要がある。スペインの歴史を知ることの中には、その歴史を取り巻く背景を理解することも含まれている。詳細に知る必要はない。知るべきことが多すぎてそもそも不可能だ。しかし少なくともスペインの歴史を取り巻く背景について、概要くらいは理解しておかなければならない。概要を理解していれば、他に入手できる情報としてどのようなものがあるか、それは誰から入手できるかがわかる。知識のコミュニティを活用できるようになる。

本物の教育には、自分には知らないことがたくさんあると知ることも含まれている。持っている知識だけでなく、持っていない知識にも目を向ける方法を身につけるのだ。そのためには思い上がりを捨てなければならない。知らないことは知らないと、認める必要がある。何を知らないかを知るというのは、自分の知識の限界を知り、その先に何があるかを考えて見ることにほかならない。それは「なぜ?」と自問することだ。スペインで何が起きたのかと考えるだけでなく、他の国々では何が起きていたのか、そしてそれがスペインでの出来事にどのような影響を与えたのかと考える姿勢を身につけること。あるいは単に割り算の筆算の方法を覚えるだけでなく、筆算の仕組みがどのようになっているかなど、自分が知らないことを探求する姿勢を身につけることだ。

私達が個人として知っていることは少ない。それは仕方のないことだ。世の中には知るべきことがあまりに多すぎる。多少の事実や理論を学んだり、能力を身につけることはもちろんできる。だがそれに加えて、他の人々の知識や能力を活用する方法も身に着けなければならない。実はそれが成功のカギなのだ。なぜなら私達が使える知識や能力の大部分は、他の人々のなかにあるからだ。

知識のコミュニティにおいて、個人はジグソーパズルの一片のようなものだ。自分がどこにはまるかを理解するには、自分が何を知っているかだけでなく、自分は知らなくて他の人々が知っていることは何かを理解する必要がある。

運転が下手な人は、スキルが低いだけでなく、習得すべき運転のスキルがどれほど幅広いものであるかもわかってない。だから実際よりも自分はうまいのだと思う。主に田舎道を運転していた経験が2十年あるとする。その間ほとんど事故を起こしたことがなければ自分はかなり優秀なドライバーだと思っているだろう。それは都市でも、ひどい悪天候でも、ぬかるみや氷の張った道でも、ときには砂浜でもうまく運転できる人がいることを知らないからだ。それほど幅広い運転経験のある人と比べれば、スキルはかなり限定的だ。専門能力があるというのはスキルがあるだけでなく、スキルがあるとはどういうことかを知っていることを意味する。無知であるというのは、スキルも知識もないことだ。

無知はわれわれの人生を、知らず知らずのうちに形づくっている。人は自分が知っていることをやり、存在すら知らないことはしない傾向がある。このように無知は人生を大きく方向づける。自分が知らないことは選べない。ディズニーランドの存在を知らなければ行きたいと思うこともない。

無知には代償がある。避妊の手段を知らなければ使わない。隣家で起きてる恐ろしい事態を知らなければそれを止めるための行動もとれない。子供が危険なものに手を出そうとしていることを知らなければ、悲惨な結末が待っているかもしれない。